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初代準男爵サー・ウィリアム・ジョンソン(Sir William Johnson, 1st Baronet、1715年頃 - 1774年)は、アイルランド系のイギリスの行政官であり軍人である。青年時代にニューヨーク植民地に移住し、おじであるサー・が購入した土地の管理業務を行った。この土地は、イロコイ連邦の一部族であるモホーク族の居住地の中心部にあった。ジョンソンはモホーク語とイロコイ連邦の習慣を学び、イロコイ連邦の代理人に就任した。この成功により、ジョンソンは、1756年に、イギリス領アメリカ北部のインディアン関連局の長官となった。イロコイ連邦におけるイギリス人代理人としての経歴を通じて、ジョンソンは私的な土地経営と公務とを組み合わせ、イロコイ連邦の数万エーカー(100平方キロ以上)にも及ぶ土地を手に入れたのである。 七年戦争の北アメリカ版であるフレンチ・インディアン戦争の間、ジョンソンはイロコイ連邦兵と植民地民兵の指揮官を務めた。ジョージ湖の戦いでイギリスに勝利をもたらし、これによって準男爵を叙された。1759年のナイアガラ砦の包囲戦でさらに知名度がまし、インディアンたちの長官として、1756年から死去するまでの20年近くを務め上げ、アメリカインディアンを、イギリスの利益に従属させたのである。 ==アメリカへの渡航== ウィリアム・ジョンソンは、アイルランド王国のミース州に1715年頃生まれた〔O'Toole, p. 19〕。スミスタウンに住むクリストファー・ジョンソンとアン・ウォーレンの長男だった。母のアンの両親は、ウォーレンズタウンのマイケル・ウォーレンとキャサリン・アイルマーで、キャサリンの兄弟にがいる。キャサリンは、何代もの伝統がある、カトリックのジェントリの家柄であったが、プロテスタントのイギリス系入植者のために、その地位の多くを失っていた〔O'Toole, pp. 19–20〕。クリストファーはアルマー郡に代々栄えたオニール家の末裔だった。ウィリアム・ジョンソンの父方の祖父は、元々はウィリアム・マクシェインと名乗っていたが、苗字をジョンソンと変えた〔O'Toole,p. 21〕。ジョンソンは、アイルランド語のマク・シェイン(シェインの息子)の英語訳である。かつての伝記作家たちは、ジョンソンをアイルランドの貧しい家庭の出だとしていたが、現代の考察では、彼の家族は、つつましくはあったがゆとりのある暮らしをしていたことを明らかにしている〔Hamilton, xi–xii, p. 5〕〔 O'Toole, p.37〕。ジョンソン家はジャコバイトであったが、サー・ピーター・ウォーレンは、イギリス海軍での軍歴を積むために、プロテスタントとして育てられたため、非常に成功し、裕福になった〔O'Toole, p. 25〕。 カトリック信者であったことから、ジョンソンのイギリスでの昇進の機会は限られていた〔O'Toole, p. 36〕。特に信心深くなかったジョンソンは、アメリカでおじと仕事をする機会を与えられた時、プロテスタントに改宗(宗旨替え)〔この場合「改宗」がふさわしい表現かと思われるが、現時点での改宗は全く異なる宗教からの帰属と定義されており、帰正も意味合いが異なるため、こういう表現にしている。〕〔O'Toole, p. 38〕。おじのウォーレンは、ニューヨーク植民地のモホーク川沿いの未開地に、かなりの広さの土地を購入していた。ウォーレンはジョンソンを、その地に入植地を作るため力を尽くすよう説得した。この地はウォーレンズバーグとして知られており、ジョンソンがその土地の大部分を非公式に相続したといわれている〔O'Toole, pp. 37–38〕。ジョンソンは、12組のプロテスタントのアイルランド人家族と共に、1738年頃アメリカに到着し、土地を開拓し始めた〔O'Toole, p. 41〕。この時、開拓のためにアフリカ人奴隷を買い入れた。ジョンソンがアメリカに着いて、最初に購入したであろうものの一部だった〔Hamilton, p. 36〕〔 O'Toole, p. 291〕。 ウォーレンは、インディアンとの交易に打ち込むように主張した。ジョンソンは間もなく、ウォーレンズバーグから流れ出る川とは逆方向の北に、交易路が伸びているのに気付いた〔O'Toole, pp. 41–42〕。1739年、ジョンソンは自ら進んで家と小さな農場を川の北に購入し、そこに倉庫と製材所を建てた。ジョンソンが「ジョンソン山」と呼んだこの場所から、オールバニのインディアンたちの交易へに仲間入りするのは可能だった。ジョンソンは、に行く交易者たちに物資を渡し、川を下って戻ってきた彼らから毛皮を買って、オールバニの仲買人と交渉する手間を省き、ニューヨークの毛皮商人とじかに取引をした〔O'Toole, p. 68〕。オールバニの仲買人はこれにひどく怒った。またウォーレンも、甥が自分で毛皮を売りさばくことを喜ばなかった〔O'Toole, pp. 43〕。 ジョンソンは、イロコイ連邦諸族で最も東に住むモホーク族との緊密度を深めた。ジョンソンがアメリカ植民地に着いた頃には、モホーク族の人口は580人にまで減少していた。これは、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病と、毛皮交易に関連した民族間での抗争によるものだった〔O'Toole, p. 65〕。モホーク族は、ジョンソンが自分たちの利益をイギリス帝国に向けて代弁してくれるとみなした。1742年頃、彼らはジョンソンを名誉族長としてワラギヤギーという名を与えた。これをジョンソンは「偉大な仕事を引き受ける人物」と訳している〔O'Toole, p. 69〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・ジョンソン (イギリス帝国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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